那智勝浦温泉のつづきですが、那智勝浦町が生んだ偉人のお話です。
僕も小学校時代にはスポーツ少年団でサッカーをやっていました。
小さな市ですが当時小学校が7校あり、その中で最終試合の6年生の時に優勝したこともありました。
本当にうれしかったことを今でも覚えています。
そんなサッカーの生みの親といわれる中村覚之助さんの顕彰碑がJR那智駅前にありました。
実はこの碑を見つけてはじめて中村覚之助さんの功績を知った訳ですが。
碑文にはこのように書いてありました。
「日本サッカーの始祖」中村覚之助は明治十一年(一八七八)五月この地浜ノ宮で生まれた。同三十五年東京高等師範学校(現筑波大学)在学中に「アソシエーションフットボール」を翻訳し、日本初のサッカー指導書を発刊、蹴球部を創設し日本最初の近代サッカーの試合を行った。氏はサッカーの普及発展の礎を築く活躍をしたが、志半ばの明治三十九年、二十九才の若さで急逝した。日本サッカー協会の旗章「三本足の八咫烏」は熊野出身の氏に因んで選定したと伝えられている。和歌山文化協会は平成十四年、第五十三回先覚文化功労者として顕彰した。
ここにその功績を記し、浜ノ宮及び熊野人の誇りとして末永く後世に伝えるものである。
日本サッカー協会のホームページには、その『アッソシエーションフットボール/ASSOCIATION FOOT-BALL』(鍾美堂刊)1903年 (復刻版)の写真が掲載されていました。
by ひらおか