江戸時代の湯の花が現代の入浴剤に
明礬生産に生命をかけた五郎右衛門
渡辺五郎右衛門がいつ生まれたのか、またいつ亡くなったのか、定かな記録は残っていません。
ただ確かなのは、この人物が日本で初めて、別府温泉での湯の花づくり(当時は明礬づくり)に成功したということです。
江戸時代の後期に著された“明礬山始覚”(みょうばんやまはじまりおぼえ)という本の冒頭に、この人物の名が出てきます。
肥後八代(現在の熊本県八代地方)に生まれた五郎右衛門は、寛文4年(1664年)、豊後立石の地(現在の別府市立石地区)において明礬づくりに乗り出したと記されているのです。
明礬は、学問的にいうなら硫酸アルミニウムカリウムという物質で、昔から染物には欠かせない材料でした。
この物質は、染料と共に布の中に入ると、これと結合して水に溶けない物質に変化します。
日本では相当古くから、中国から輸入されていました。
当時中国では、主として自然鉱の中から掘り出し精製する製法でこれを供給。
染物業者にとっては、この明礬こそ、無くてはならない必要不可欠のものだったのです。
日本初!明礬の国産化に成功!
1664年といえば江戸開闢以来半世紀。徳川幕府の権威も日本の隅々まで及んでいた頃です。
鎖国という体制ながらも、生活に必須の物資は長崎を通じて我が国にもたらされていました。
にもかかわらず、五郎右衛門が明礬の国産に何故乗り出したのか、また別府の地にそれが産することをどうして知り得たのか、それは全くの謎です。
記録によれば、五郎右衛門のこの試みはまず失敗に終わります。
それは品質が輸入物に比べてひどく劣っていたからでした。
そこで彼は長崎に飛び、ここで中国人から明礬の製法を盗み取ることに成功するのです。
この頃の彼はまだ20代だったと思われますが、若くしてこの情熱あったればこそ、明礬の国産化は初めて可能になったのでした。
やがて寛文6年(1666年)、彼は立石よりもっと山深い所、現在もその名が残る“明礬”の地で、本格的な生産を開始するのです。
“豊後明礬”の誕生です。
以来その名は、日本初の国産明礬として全国に知れ渡っていくことになります。
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