江戸時代の湯の花が現代の入浴剤に
戦争の傷を癒す大自然の恵み
時代の波に翻弄されながらも、江戸時代以来300年以上も継承された湯の花づくりの技術は、昭和に至り、またしても大きな危機に見舞われます。
それは太平洋戦争でした。
“湯の花”は戦時中、特に海軍には無くてはならないもので、当時の軍艦には必ず“湯の花”が装備され長靴で傷んだ足のケアに使われていたのです。
けれども生産地である別府では多くの働き手が召集され、手間と労力のかかる湯の花づくりには大きな陰がさしてきました。
更に薬業の発展による売上の低迷が追い討ちをかけたのでした。
こんな時、当社創始者である佐分利清一翁は大きな心の迷いを抱えて別府の地にありました。
経営していた金鉱山で思わぬ落盤事故により、幾人かの尊い命が失われました。
この事故にショックを受けた佐分利翁は人生何たるかを見つめ直すために、事業を整理し、別府の地に観想の日々を過ごしていたのです。
昭和25年頃の別府には多くの引揚者や結核を患った人々が、全国から集まっていました。
別府は、その温泉のゆえに、あたたかく、病を癒す一大保養地であったのです。
別府の温泉を全国の人たちへ
大自然の恵みが、いかに人の心とからだを包み込むかを身をもって体験した翁は、何とかこの恵みを日本のすべての人々に与えることができたらと考えるようになってゆきました。
人生の成功とは金銭や名誉に非ず、心の遺産を積み他の人々に尽すことこそ、その本意であると悟った翁は、以来、温泉の研究に没頭するのでした。
そんな時、明礬を訪ねた翁は湯の花小屋を目の当りにします。
その瞬間、先人達が命をかけて守り抜いた湯の花こそが、温泉の結晶として各地に送り届けることができるとの考えに到達したのです。
しかし、強い酸性を有する“湯の花”は家庭用の浴槽には不向きでした。
更には、その荒々しさゆえに、万人に向くとは言い難いものでした。
翁は苦悩します。
そして数多くの挫折の後、渡辺五郎右衛門が明礬の精製に木灰(あく)を使ったことに思い至り、ついに別府温泉の“湯の花”に、天然の火山由来成分のホウ酸を配し、アルカリ性のセスキ炭酸ナトリウムを混合処方するオブクレイの基本が出来上がったのでした。
江戸寛文年間に若き一人の開発者によって創り出された“湯の花”(当時は“明礬”)が、限りなく天然温泉に近い入浴剤として万人に愛されるまでの足取りは、こうして刻み続けられてきたのです。
1603>江戸幕府開府
1666>渡辺五郎右衛門 湯の花作り始める
1730>脇儀助 湯の花作り再興
1867>大政奉還
1884>岩瀬保彦 湯の花再開発
1961>佐分利清一 薬用入浴剤の開発