江戸時代の湯の花が現代の入浴剤に
渡辺五郎右衛門の志を継ぐ
“豊後明礬”を作り出した渡辺五郎右衛門の晩年は大変寂しいものでした。
というのも寛文6年(1666年)に五郎右衛門が始めた明礬の国産化の後、中国貿易の業者達は一気に危機感を強め、極めて安い価格でこれと勝負に出たのです。
いつの世も「経済戦争」とは厳しいものです。
手間と暇とを惜しまずに作られる国産品に比して、地中の明礬結晶を掘り出す中国産は安い労働力にも支えられ、格段に安価に供給できたのでした。
様々に経営が圧迫された五郎右衛門はついにこの事業を放棄。
仏門に入って静かな余生を送ったといわれています。
江戸時代の一村一品 “ 豊後明礬 ”
江戸時代の古文書「明礬山始覚」には、この後、打ち捨てられた湯の花小屋を見て心を痛めた人物が記されています。
それは、豊後 日出 小浦村の庄屋、脇儀助という人。
儀助は何とかこの地域の特産ともいうべき明礬作りが復興出来ないものか、さまざまに思案をめぐらせました。
その結果、とんでもない奇策を思いつくのでした。
それは中国製品の“輸入制限措置”でした。
つまり、儀助は時の政府に働きかけ、運上金(税金)をこれまでの6倍にし、代官所の歓心をかい、一気に中国産明礬の輸入禁止につき進んでいったのです。
その結果、享保15年(1730年)、ついに幕府を動かし、国産明礬の勝利を導きだしたのでした。
以来、大坂、京都に会所が設立され、わが国の明礬の実に8割以上のシェアを獲得。
見事に明礬の地の復興に成功するのです。
時に渡辺五郎右衛門が製造を開始して66年の年月が流れていました。
>> 湯の花生みの親岩瀬保彦>>